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太田清之著作集
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関連文集:「太田清之著作集」より

昭和35年1月 北診
 香港台湾だより
 

 昨年九月私は機会を得て香港と台湾とを訪れるこ上か出来た。同じ黄色人種の故か、欧米とは異って、言葉の通ぜぬのは同じだが、何か肩の荷の軽るい心持であった。当時の想出をつれづれなるままに書いてみよう。


洋服地
 自由港香港で買物すると非常に安く手に入る。但し十分掛値がしてあるから、有名な百貨店においてすら半分位に値切る必要があると言う。就中香港の英国製の洋服地は安くてしかも品が上等だと言う。私も一九五ホンコンドルの英国製洋服地を一六〇ドルにまけさせて買ってきたが、帰って専門家に見せたら、首を振って答えない。家内も大失敗だと言うので、当分の間はしょげていた。しよせん私には商売は出来ない。


ヒスイ
 香港は宝石ヒスイの名産地でもある。これまたうまく買わないと、とんでもないものを高く買わされる。緑色は透明で中ににごりがなく、厚手であって、底に穴のないのがよいと言う。
ヒスイは私は成功した。百貨店の専門家に見せたら丁度日本の価格の半分で入手してきたものらしい。


蛋民
 香港島の周囲、特にアベルデンに群集する蛋民の大小のジャンクには全く一驚した。彼らの簡素極まる水上生活、その生活力。私共のとめた車をとりまく子供。口口に何か叫び、手を出し誰かが投げた硬貨をめがけて、水中に争ってもぐって行く。皆はだし、黒い肌色。剰悍な顔付。引き緊った肉体。整った美しい娘。彼等の生業は漁である。漁った魚介を宝船と称する豪華な船上の料理屋にうる。この宝船は自家発電をもち、香港の長者が常用する大きなキャバレーも兼ねている。


渡船
 香港飛行場は大陸側のクーロンにあり、私共のホテルもクーロンであった。それ故に香港に渡るには渡船にのる。大きな船で前後がなく、そのまま波止場についてまたそのまま逆に出て行く。大体五分問おきに船があるので大変便利である。香港からの帰路、うら覚えの路をたどって乗船したらあたりの様子がちがう。皆支那人ばかり。これで乗船口で支払ったお金を半分返して呉れたわけがわかった。下等なのである。初めにのったのは上等なのであった。


香港ドル
 自由港香港では二十八ヵ国の貨幣が通用していると言う。道路の至る所に両替屋が店を開けている。日本円も仲々有力であるが、香港ドルとの立価が毎日、午前と午後とで異る。大勢の日本人がきたと言うので、日本円は一時下ったと言う。


夜の香港
 夜の香港は美しい。ビクトリア、ピークから見た香港の夜景は世界三美夜景の一つであると言われる。あらゆる色彩のネオンのまたたきもさることながら、香港の電気は二〇〇ボルト。日本の倍である。明るいのも当然である。


銃をもった店番
 香港島には平地が殆どない。海からすぐビクトリア、ピークまでの山である。路は天故極めてせまい。そのせまい路をあふれる程の雑踏である。友人と一緒に歩いていても、一寸油断すると見失う。この雑踏のカントン通りに大きな宝石商がある。二人の銃をもった店番がいかめしく立っているのが印象的であった。


楊大人
 台北飛行場について、うろうろしていたら、立派なみなりの支那の紳士が現われて、名刺を出しながら、何か私に出来ることはないかと問う。純粋な日本語である。これが楊大人であった。氏は旧日本の台北帝大学部出身の医博で、私共が学生時代講義をきいた高橋教授が氏の恩師であった。奇遇におどろきながら、私共は日本料理を希望した。氏は直ぐに自動車をやとい、希望の料理屋につれて行ってくれて、希望の料理を御馳走してくれた。

 それから約一週間氏は私共のためにあらゆる面倒をみてくれた。それはまことにりくつを抜きにした奉仕そのものでさえあった。氏の古い昔の日本への郷愁がさせたのか、現在の不安定な台湾政府よりも確実に発展しつつある日本に一人でも知人を作っておこうとする意味であるのか。それは私は知らない。限りない感謝をもって私は氏と別れて日本に帰った。今後もいつ迄もまた文通をつづけ、いざと言う時に力になってあげたいと思う。


生蕃
 台湾で生蕃を最初に見たのは、台北の西、松山にある省立精神病院を見学した時であった。一人の患者として中年の生蕃が入院していて、原始的な竹細工を作っていた。精神分裂病とのことだった。まる一日のバスの旅をおえて日月湖のエバーグリーンホテルについた時、生蕃の一群が正装して歓迎してくれた。若い娘は実に美しく、何か古き日本人の原型を見るような気がした。翌日日月湖を渡って蕃社についた。正装した多くの若い蕃人が、単調な舞踏を見せてくれた。皆はだしであるのが気になった。稲をつくきねはアイヌ人のそれと同型であった。きねつき唱も単調なものであった。アイヌと同じく台湾の生蕃は全くショーとして生活しているのであった。


日月湖
 日月湖はほぼ台湾の中央にあり、旧き日本が現在の中華民国に残した遺産のうち最大なものの一つである。大きな人造湖であってその発電能力は全島の半をうるおすと言う。またこの湖水の出現によって全島に初めて大きな遊覧地を作ることが出来た。そしてそれ迄谷底にあった生蕃の村を衛生的な湖畔にうつすことが出来た。私共の宿ったエバーグリーンホテルは旧き時代には全く純日本式に建築されたものであって、現在でもその香がすみずみ迄行きわたっている。


蕃刀
 乃渡り一尺あまり。柄とさやの一方にはいかにも原始民族らしい彫刻がしてある。一寸そり身になっていて、首でも切れそうである。よせばよいのに、子供らへの玩具と思って一振買ったのが運のつき、羽田の関税でひっかかり、刀身を抜きとられてしまった。


果物          
 熱帯の果物はうまい。バナナ、パインアップル、そしてパパイア。毎日食べているうちにすっかりあきてしまった。果物といえば、これだけしかないのである。





馴れぬ場所なれぬ看護婦なれぬメス一汗かきぬ手術終わりて ささやかな土にはあれど新しく吾が得しものと手に採りてみる 太田清之
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太田清之著作集
札幌太田病院創立
40周年記念

発行:昭和59年11月11日


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本ホームページは太田清之(1903〜1961)が発表した文献を掲載しているため、記載されている情報は現在の医療規則・法律よりも古いものです。




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