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関連文集:「太田清之著作集」より

昭和33年10月11日 北診
 ビールと私
 

(一)
 この頃はよく友人から、半ばあざけりと半ば羨望の意味をこめて、お前はまたふとったナ、といわれる。新陳代謝の衰えに初老の故もあろうが、これは主としてビールのせいだと私は思っている。実際この頃私はビールをよくのむ。私はビールが大好物で、最も熱心な札幌ビールの初対面は、北大予科に入学した大正の終わり頃にさかのぼる。現在の朝日生命の医長川村昌喜氏のところで御馳走になったナマが最初であった。そしてこの機会がビールと私とを永久につなぐこととなった。世にかかるうまき水あろうとは!。そしてビールがバビロン五千年の昔に創造され、人類のもつ見ずのうちで最も栄養にとんだものであることを知ったのは間もなくのことだった。それまでの私はビールをのむこともなく、またのもうとする欲望もなかった。それは父も長兄も厳格な学校の教師で、酒類を全く離れた少年時代をすごしたからであった。私のビールに対する嗜癖は、それ故に父や兄に対する意識下の反抗の一つの現われであったかも知れない。

 その頃私は小樽から北大へ汽車通学をしていたが、帰途札幌駅上り構内の立売生ビール一ぱい金十銭也がなかなかの魅力であった。一緒に通学していた先輩(現小樽市医師会長)の石橋猛雄氏を誘って時々のんだ。石橋氏はその頃は現在と異り、黒髪ふさふさと全頭を蔽う紅顔の美青年で、ビールは殆んどのめなかった。

 それが私としてはつけめで、彼は一寸口をつけただけで大部分のビールを私に回してくれるのが常だった。三十五年後の今日、氏は少しはのめるようになれたらしいが、とても私には及ばない。ビールの道だけは私は氏の先輩であることは確実である。


(ニ)
 その頃から私にはビールをたらふく飲んでみたいという欲望が常に心の底にとぐろを巻いているようになった。そして学生時代にも医局時代にも、また秋田脳病院に奉職時代にも、この欲望は十分に満たされぬ悲願として残ってきた。十年たった。他人の病院の世話がつくづく厭になって、自分の生涯の開業地を札幌に求めたのも、故郷ということの外にビールへの悲願が秘められていたのかも知れない。

 昭和十八年私は札幌の現在地にささやかな病院を開いた。その頃は第二次大戦の終りに近く、ビールもまた厳重な統制下に置かれていた。ビンは同じだがそのレッテルも粗末なもので、只一枚麦酒と書かれ、その味も戦前や今日のようなこくのあるものでなかった。それでも私はビールあさりに懸命であった。グランドホテルの地階のホールへの長い行列に加わった末、ビール券一枚を手にすると更にもう一度最後の列に加わったり、あるいは狸小路の直営まで走ったものだった。その頃の直営の内部は荒板で仕切ってあったりして、誠に雑風景極まるものであったしビールつぎの老人はおっかない人で無愛想でよくお客が叱られた。


(三)
 終戦になり、やがて世は安定し、ビールはうまくなり、そして札幌ビール会が再発足した。昭和二十七年市立札幌厚生病院長の富沢武雄氏と藪合社長の藪務氏の二人が、私のビール好きを知って新設にも私をビール会に推せんしてくれた。かくて間もなく立派なビール会員となった私は四十年ぶりで若き日の悲願を達成し得たわけであった。

 ビール会に入ってみて、私は初めて同好の士の多いのに驚いた。医師では奥田祐安、松本剛太郎、井上善十郎、山田豊次、山田大秋、滝本庄蔵、武田勝男、三上二郎、高山担三、安保寿、小竹英夫、奥田正治、中村豊、山本利治、田川精三郎、飯室進、東繁蔵および石井主器夫などの諸氏。一般人では穴釜升夫、福山甚三郎、石沢千秋、菊池吉次郎、柏岡清勝、木村信子、増本庄太郎、関堂利男、斉藤フジ、繁野三郎、富樫長吉、立原耕平などの諸氏。これらの人々とあるいは『まるい』や三越の屋上で、あるいはグランドホテルの二階ホールで、あるいはビール会社の庭園で、あるいは雪印乳業の野幌種苗所で、ビールの満を引きつつ世のうさを忘れて語り合うのは正にこの世の天国ともいえよう。

 しかし秘かにこれらの人々のビールの量を調査した所によると、案外少ないのにおどろいた。最高七はい、最低一ぱい、平均二はいに及ばず。しかもそのローレンツ曲線は、誠に医師の収入に極似していて、最高のものは極めて少なく、三、四はいというところから一ぱいまで、富士のすそ野は広くつづいているのである。

 ビール会員の優秀性は単にビールの量だけではない。毎月の会に出席して適当の時間を楽しくすごし、飲んであばれるが如き醜態を演ぜず、ビール会の規則
 一 無理じいせざること
 一 注ぎ足しはせぬこと
 一 最後は余さずのみほすこと
 などを正しく守り、陶然として、静かに席を立つにある。なかでも欠席の多いのは何としてもよい会員といえない。医師ではこの点奥田祐安が優等生であって、札幌ビール会発足以来無欠席であるという。一ヵ年無欠席の会員には会から賞品としてふた付のビールカップが寄贈されるが、祐安氏はすでに八個に及び置き場に困っておられる。私の好敵仁平氏もとうとう本年一月一個を獲得して得々たるものがある。ところが、これほどビール好きの私はまだ一個もものにしていない。これは医師会やその他の用事で旅行する事が多く、ビール会当日とぶつかれば万石の涙をのむ次第である。しかし今年は日医の代議員を落選したお蔭で、どうやらこの八月まで無欠席で、あと五ヶ月、万難を排しても出席し、せめて仁平実氏の鼻をあかすべく目下努力中のところである。


(四)
 さて、ここらで私のビールに関する学識の一端を示してみたい。これは私があまりビールをのむので、何かビールに副作用でもありはしないか、という生命おしさの研究の結果であってあまり賞めたことではないのであるが、知ったことを黙っているのは腹ふくるる術の一つ故あえてここで発表しておく。

 ビールの薬効については今更いうまでもない。富沢氏によればまだストマイもパスもなかった戦時中、一人の妙齢の乙女が結核性腹膜炎に罹った。どんなものでもすぐ嘔吐して受けつけず、生命も旦夕に迫った時、氏は乞われてこの乙女を診察して、試みにビールを一ぱい与えてみた。不思議にこの一ぱいのビールのみがおさまった。かくて氏の新しいビール療法が始まった。

 乙女は全快し、結婚しすでに二子の母であるという。但し彼女は母となっても、毎日ビール一本の晩酌はかかさないという。この例でも判るように、ビールには生命の根源たるあらゆる栄養を含んでいてビールだけで他のいかなる食物をとらないでも人間は生きていけるそうである。これはあの水に含むアルコール、ビタミンおよび適量の蛋白質(可溶性の)によるものと思われる。ビールのもつ食欲増進性は主としてそのうちに含まれる炭酸ガスによるものであろう。またドイツ留学中の森鴎外が独文で書いた研究論文中に「ビールの利尿作用について」があって、私共を微笑させる。彼はろくろく勉強もせず、ビールばかりのんで小説を書いていたにちがいない。そして帰朝後陸軍に提出せねばならぬ留学中の成果として、こんなものをうやうやしく差出したのであろう。

 実際ビールをのむとよくおしっこに行く。これは只々ビールの主成分たる水のためばかりでなく、ビールのなかに何かの利尿剤があるにちがいない。それゆえにビールは腎臓の薬にもなり、心臓の薬にもなる。ビールをのんでふとったから脳溢血になるなどとは正に杞憂にすぎない。脳溢血になりたくなかったら大いにビールをのむべきである。その他美0るは吸収のよいこと悪酔や二日酔のないことなどを数えると限りない薬効のある貴重な水である。もちろん私はビール会員であるけれども、これでビール会社から宣伝費をせしめようなどというけちな了見はもうとうないことを断言する。


(五)
 昭和三十一年秋九月。若き日の私の念願の一つがみのって外国旅行が実現した。世界中のビールを味わってこよう。私は秘かに心に決しつつ月の明るい羽田の夜を出発した。

 欧米のビールは一般的にいって、会社も多く、種類も多く、また味もいろいろであった。ビールの名前は創立者の名前をそのままとったので、日本のように朝日とか札幌とかいった風流なものではない。価は一般に安く、わが国にすればただみたいなものである。

 先ずアメリカのビールであるが、これはあまりうまくない。特に鑵入のビールなどは安いことは安いが何だか薬くさくてのむ気がしなかった。ただ独乙人の名前らしいバドワイザーの生だけは少しいけた。お金がまだ豊かであったころは専ら日本からの輸入ビールをなつかしんだ。アメリカはどこでも、そして特に日本の料理店では、日本のビールの小ビンが手に入ったので、大いにのんだ。バーにはいって
 「ジャパニーズビーア」
と注文すると、きまって
「キリン?ヲア ニッポン?」
と反問された。実際をいうとはるばる太平洋を渡った日本のビールはあまりうまくなかったし、価も六十セント(約二百円)でなかなか高く、郷愁を慰す以外の何ものでもなかった。

 カナダの秋は深かったが、ビールはうまかった。モントリオールのバービーキュでとった鶏とビールの味を私はまだ忘れない。和田淳君の友情と共に。ロンドンのビールもうまいと思った。しかしここでは名物のウヰスキーを加えることによって、さらに味を高め得たように思う。生ビールにブラック・アンド・ホワイトの小ビンから少量を加えて、ぐっとあおったあの心持。北欧ストックホルムのビールもまたうまかった。味も次第に札幌ビールに似てくるように思った。但しバーの時間には制限があるし、バーの入口に巡査らしき人が立っていて、未成年者の入場を監視したりしているのは興ざめであった。コペンハーゲンの駅前やバーのアムステルダムのアムスホテルのバーでのんだビールは少し薄目の感じであったが、なかなかうまかった。フランクフルトでは久し振りにあった関西の日本人バイヤーと共に宿近くのバーでクラフト・ビーヤを相当あけた。久し振りに使う日本語がすらすらと喉から出てきて、心持よき酔であった。独乙にはいるとビールは俄然うまくなった。味が札幌ビールと似ている故であるかも知れない。


(六)
 ミュンヘンはやはり世界一のビール国であった。中央駅構内でウルストを喰べながらのんだビールの味!その自然さ、その軽るさ、そのうまさ。これだけでもはるばる外国旅行してきた甲斐があったとさえ思った。秋元東大教授や切替札医大助教授と共に、色々なバーをのみ歩いて、心持よく酔って、三人で肩を組みながら札幌の歌をうたった。どうしたものか涙が出て困った。

 いまこれを書く為に、旅行記念の品々のうちから、ビールカップの下敷になる丸いビールマットを出してみた。十五枚ある。それぞれちがった印刷で、ビールの名前が書いてあって、何れも多少ビールの泡で汚れている。なつかしい。
 ヘーミンガー。東洋人らしき男が大きな笠をかぶってビールのカップを握っている。
 トーマス。頭のはげた肥った男が、先端に星らしいものをつけた棒をもって笑っている。
 ドル富むんだー。むぎとホップの画。赤。そしてこれをかこむ輸出用および世界的名声の独乙文字があざやかである。
 ベックス。鍵と盾が赤く印刷されていて、これとななめにベックスの文字。
 アウグステナー。青い印刷で、一三二八年創造、世界中これよりうまいビールはない。と書いてあり、苺らしい葉と実とが模様の如くこれらの文字をかこんでいる。
 プリスナー。ビール樽の中に凱旋門が青と赤で印刷されている。一八四二の数字は創始の時であろうか。そして英語でプリセムにおける唯一のビールとある。
 レーウエン。青い印刷で唐獅子模様。
 ビンデング。昔の器械ふたつきの牛乳ビンのようなビンの画。家庭ではビンデングのみを、と書いてある。
 シュルタイス。ゴールド・メダインの独乙文字と沢山の入賞メタルの画。中央に若者がビールカップを持って微笑している。赤。
 ブロイ。青い星形が大きく印刷してあってそのなかにブロイの独乙文字の白抜きブリー。赤。強いビール。一本のブリーあるのみの独乙文字。
 トーマス。青。老人の横顔シエルエットサントトーマスミュンヘンの独乙文スパーテン。赤盾とシャベルの画。一三九七年より、裏に汝スパーテンを飲むべしの独乙文。
 私がミュンヘン滞在中にのんだビールの種類はこんなものであった。何れも少し宛味は異なっていたが、札幌ビールに似ていて、口あたりが非常によかった。六百年の昔から気候風土に恵まれて造られた、永き伝統の貴重さを思わずにいられなかった。

 このような吸取紙を札幌ビールでも、せめて夏期の旅行者のためだけに、直営のあたりで出してみたらどうだろう。

 会社の宣伝になるし、旅行者には記念になるし、机上にあふれ出る泡を吸って、きれいで気持がよい。


(七)
 フランス、スイス、イタリーにも勿論ビールはある。味もそれほどわるくないが、ミュンヘン・ビールを一度味わっては、それほどの感動も覚えずにすんだ。ただこれらの国々のブドー酒の味がすてきだと思った。日本でのむ甘いポートワインではなく、いわゆる薬用ブドー酒に属するもので、甘くないからいくらでものめる。これらの国の人々も独乙人がビールをのむようにワインをのんでいる。

 白と赤があって味も少し宛ちがう。価も極めて安い。その入れ物も昔の伝統をそのままに風雅である。底の広い青色のビン、その下を藤の枝で巻いてある。ワインがあいたら、そのまま花ビンになって立派な応接間を飾る品物。アメリカの鑵入ビールと比較して何という差異であろうか。

 ローマからエア・フランスの飛行機にのって、テヘラン、カラチ、バンコック、サイゴン及びマニラと数時間宛とまった。ただ飛行場だけであるが、ビールをのんだ。熱帯の国だから、冷えたビールはうまかった、が味そのものは特別なことがなかった。サイゴンから乗り込んだ日本娘のスチワーデスから、機上でビールを一ぱい貰ってのんだ。名前も知らず、また知りたいほどうまいビールでもなかったが、それが外国領でのんだビールの最後となった。

 霧雨けむる初冬の羽田に深夜着陸して、エア・フランス会社の紹介で、品川のプリンスホテルに投宿。真先に注文したのが日本ビールだった。祖国のビールはやはりうまかった。誰にも知らせぬ帰国であったから、私はまったく自由でまったく孤独であった。
 ビールだけが友であった。
 こうして世界中のビールをのみくらべてみて、私は私なりに次のようなことを発見した。古き伝統をもった寒い風土においてのみ、うまきビールは誕生すると。札幌ビールもこの寒き風土に生まれて九十年。これから更にうまくなるだろう。それまで生きて味わいたい。


(八)
 私もビールを飲み始めて約四十年。からだもこえて量も増した。そして何時か如何にせばビールを最もうまくのめるか、ということを本能的に識るようになった。

 ビール会の朝私はベットの上でめざめる。五時。まだ早いが起きようと思う。ふと何かよいことが今日はありそうに思って、今夜ビール会につきあたる。私は元気よくベットの上に起き上り、直ぐ外に出る。愛犬ロリーが私を待っている。犬を連れて鶏小屋、豚小屋、山羊小屋、馬小屋と見て廻り、それぞれかいばを与える。次に畑を見廻って今日一日の仕事の計画をたてる。六時頃部屋に帰って自分のベットや部屋を整理したり掃除したりする。六時半病室にはいって、患者さんと一緒にラジオ体操。七時家族と食卓につくが、ビール会当日の朝食は極めて簡単でいつもの味噌汁もお茶もない。九時頃から外来や廻診。この間患者さんの家族その他のお客さんに面会するが、お客はのんでも、私はお茶に手をつけぬ。十二時頃自宅に帰って軽い昼食。この時も量も質もごく軽く摂る。午後からは患者さんと一緒に畑に出たり、委員会、医師会、審査など会に出席する。これらの会に出席しても、お茶はのまぬ。菓子なども協力さける。様子を知っている奥田正治氏などと審査会でいっしょになると、給仕の娘さんに
「太田先生にもっとお茶をもって行け。」などとやじをとばす。馴れた娘さんなら、一寸私の方をみて微笑して、そんな無茶な命令には服さない。さて五時半私は十分に水分にかつえてビールの歌を心でうたいながら堂々ビール会に出席するのである。





ささやかな土にはあれど新しく吾が得しものと手に採りてみる 太田清之
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太田清之著作集
札幌太田病院創立
40周年記念

発行:昭和59年11月11日


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