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当時の論文・コラム:「随筆:狂人と常人」より

昭和14年5月 秋田刑務所にて講演
 健康と心の持ち方
 

 今回健康週間の第一日に当りまして、不肖私に衛生講話を致す機会を与えて下さいました事を感謝すると共に、私のこの拙き講話が、少しでも皆様の参考にでもなりましたならば、私の望外の幸と致す所で御座います。

 扨て健康を望まぬ人間は御座いません。昔から、健康保持のために色々な健康法とか養生法とかが工夫されて居ります。例えば食物はよく噛んで食べる事、暴飲暴食を避ける事、毎日一回位便通を付ける事、適当な運動をなし、常に正しい姿勢を保つ事、早寝早起を実行し、一定の安眠を採る事、住居や衣服は常に清潔にして、日光と新鮮な空気には出来るだけ多く接する事等の諸事項は、何れも健康を保持するために、絶対必要な事であると言われて居ります。そして之等の事は大抵皆様の既によく御承知の事であり、又当所に於いてもその大部分が実際に実行されて居る筈なのであります。然し健康と心の持方との関係に就ては、古来余り多く言われて居りません。そこで私は今日前述の様な健康法には触れず、健康とは何かと言う事を再吟味して、健康の本態に就いて考察し、更に健康と心の持方の関係に関し、平素私の考えて居る所を述べさせて戴きたいと存じます。

 扨て健康とは如何なる状態を言うのでありましょう。こんな疑問は一見何の苦もなく解答され得る様に思われますが、深く考えて見ますと決してそんな簡単なものではありません。大抵の人々は「俺は健康だ」と威張って居ります。然し果して之等の人々は真の意味で健康でありましょうか。或る意味から申しますと、世の中には真の健康者はただ一人も居ないのであります。毎日烈しい労働を続けて生活していて、一見何処も悪くない様に見える人々でも、多くの専門医が詳細に検診致すならば、必ず身体の何処かに異常なり病気なりを、発見するのであります。又久しい間病床に横たわって、生命が旦夕に追って居る様な重病人であっても、その人の主なる病気は、身体の中にある多くの機関中の一つか二つが犯されているのみでありまして、残りの大部分は健康なのであります。こうなりますと、健康と言う事の定義が、甚だ困難となるのであります。然し先ず一般的の見解に従って、定義を下すならば「健康とは身体の総ての機関が完全無欠であって、その機能が少しも支障なしに遂行し得る状態である」と言えましょう。けれどもこの意味に於ける健康は理想の姿であって、実在しないのであります。人間と言うものは必ず何等かの異常、何等かの疾患を有する不健康者なのであります。言葉を換えて言いますれば、病気があると言う事が普通の事なのであって、全く無病であると言う事はあり得ないのであります。然し私共は之等の病気には多くは気付かず、気付いたとしても何等の支障を感ぜずに生活しているのでありますから、或る程度の異常とか病気とか言うものは黙殺さるべき性質のものであって、この実際的の見解に従いますならば、或る程度の病気を持っていても、健康者と言い得るのであります。それ故今実際の立場に立って定義を下すならば「健康とは生活機能が少しも支障なしに遂行し得る状態である。」と言う事となり「身体の総ての機関が完全無欠であって云々」と言う理想的な定義の前半が削除される事になります。斯くて健康と言う事は要するに身体の作用の完全と言う事となり、病気の有無は問わない事となるのであります。実際世の中の多くの人々は皆或程度の病気を持ち乍ら、堂々とその生活戦線に活躍して居ります。例えば戦争中には敵弾に傷つき多少は不自由な身を持ちながら、お国のために奉公された方々も少なくないのであります。その全能力を挙げて目的達成の為に努力し得る人、これこそ健康者なりと誇ってよい人なのであります。

 処が世の中には非常に過敏な人が多く、自分の身体の事を絶えず心配し、一寸頭痛がある、眩暈がすると言えば、脳膜炎になるのではあるまいかと、新開や雑誌で読んだ生半可な医学知識を振り廻して心配し、医者から医者へと訪ね廻り、そうでないと言われても安心せず、些細な苦痛にでも死ぬのではないか、と恐れ戦き、益々救われざる深味へと陥って行く人々が多いのであります。この様な事は甚だ遺憾の極みでありますが、この様な人々は身体には何等病気がないのに拘わらず、非常に重い病人なのであります。

 自分の身体は確かに自分の身体であります。然かも自分では如何ともなし得ない身体なのであります。例えば自分で自分の心聴を止めてみようと思っても、それは止るものではありません。食はずにいて空腹を感じまいと思ってもそれは無駄です。氷に手を触れると冷たく感じ、桜の花を見れば美しいと思います。それをそう思うまい、そう感じまいと努力したとて、如何ともなし得ないのであります。ここに私共は私共の身体が、私共の意志以外の大きな力、大きな法則に依って支配されている事を知るのであります。ここに私共人間の運命があります。生れようとして生れて来たのではありません。死に度くないと思っても、何時かは必ず死にます。ここに人間自身が如何ともなし得ない所の運命があるのであります。自然の運命に逆らわず、些細な身体的の苦痛は、之を普通の事であると考え、一定の諦観の下に生活し得る人、取越苦労をせずして、現在の境遇を最もよく生かし得る人、名誉や利益を目的とせず、只働くと言う事に、喜びと感謝とを持ち得る人、こんな人が最上の健康者であると私は信ずるのであります。少し位の苦痛を持たないものはありません。之に何時迄も拘泥するのは健康者でない証拠であります。そして只一生懸命に自分に与えられた仕事をやりとげる。自分の現在の境遇を真面目に生かす。更に進んで他人の幸福の為に余力を捧げる。更に一層進んでは自己を犠牲にして他の人々の為に尽す。そして他の人々の喜ぶ様子を見て、自らも楽しむ。この様な人こそ理想的な健康者なのであります。そこには明日の不安がありません。何時でもそのまま安心して死んで逝ける安住の世界があるのであります。こんな人々で形成された世界こそ、この世の天国であり、極楽なのであります。之に反して自分の身体の些細な病気をも心配して取越苦労をし、自分に与えられた仕事を満足にやらずして、絶えず不平不満を漏らし不安な落付きない生活をなし、更に進んでは他の人々をさへ不安と心配の中へ捲き込む様な不幸な人々が御座います。そして之等の人々で成作られている世界がこの世の地獄とも言えるのでありましょう。そこには怨みや呪や争や戦などが、絶えず醜く充ち充ちて居るからであります。

 茲で私は健康と言う事の定義を再度変更せねばなりません。最初の定義は「身体の総ての機関が完全無欠であって、その機能が少しも支障なしに遂行し得る状態」でありました。次いで第二の定義はこの前半を削除して「身体の機能が少しも支障なしに遂行し得る状態」となりました。私が今ここで主張したい健康と言う事の定義は「身体の機能が少しも支障なしに遂行せられ、自己の天職をなし遂げる事に、喜びと感謝とが常に感ぜられる様な状態」でありまして、第二の定義の後に数行の文句が加わったのであります。

 私共の如何なる生活にあっても、必ず喜びと感謝がある筈で御座います。そしてそれは与えられた自分の仕事をよく遂行すると言う事に依ってのみ得られるのであります。仕事をすると言う事に依って喜びを感じ、その感謝に生きる人々にとっては多少の身体的苦痛などは意に介しないのであります。金銭とか報酬を望む様な事もありません。あったとしても、それは末の末の事であります。目的が仕事そのものにあるからであります。然かもかかる人々を世間は決して餓えせしめません。たとえ贅沢は出来なくとも、その妻子を養うに足るだけの事は欠かせないのであります。それ等の人々にとっては、この事が又感謝となり、益々その道に精進する事となるのであります。之等の事は恰も戦場にある将士の滅私奉公にも似て居りましょう。将士は只当然の事として奉公するのであります。そして銃後の私共が、その遺家族に温い後援の手を差しのべる時、将士にとっては、それが限りなき感謝となり、戦場に於ける働きに一段の輝を増す事となるのであります。些細な事で直ぐに医者に駆けつけたり、一寸の不平不満から、多くの他の人々を煩わすと言う事は、その人が未だこの喜びを知るに至っていない不健康者であると言う証拠を示す様なものであります。

 勿論私は身体の無理をして迄も働けと言うのではありません。人間には耐え得られる限度と言うものが自ら定まって居ります。耐えられなくなったら信用ある医師に総てを委せるのであります。そしてやれ熱が一分上ったの、下ったの、やれ脈拍が多いの、少ないの、やれ血圧はどうでしょう、心臓はどうでしょう、何と言う病気ですか、直るでしょうか、直らないでしょうか、死ぬのではないでしょうか、どうかお助け下さい。などと見苦しい、聞き苦しい事は一切言わぬのであります。そんな事は心配しても一体何になりましょう。令は充分に守り、心身を落付け、天が与えてくれたその試練、この休息の時間をよく利用し、色々な思索にも耽ったりする方がどんなによいか判りません。そうすれば病気そのものも感謝となるのであります。それでも死ぬのであれば仕方ありません。寿命と諦める外ないのであります。大騒ぎしても、又見苦しく大勢の人々を煩わせても、死ぬ時は死にます。助かるものなら黙って居ても直ります。現今の医学も非常に進歩して、起死回生の術も著々として実施されつつあります。然かも其の分野は甚だ狭く、大昔から直らなかった病気で、今日尚直らぬものが大部分なのであります。薬なども、世の一般の人々が考えて居る様に利くものは極めて尠ないのであります。医学は進歩します。然も総ての人間は大昔と同じく生まれ、そして依然として必ず死んでゆきます。医学は其の最後に至る迄万能であり得ないのであります。医者から医者へと迷い歩く亡者の姿程哀れなものはありません。医学を万能と誤診し、よりよき医師があるかと誤信するからであります。医師も人間です。悩みもあれば、迷もあり、誤診もあれば立腹もあります。医師を最も煩わすものは、前述の様な何にもならぬ質問であり、再三繰り返す診察の要求であります。そんな事をしても何にもならぬのみか、医師を徒に疲労さすのみなのであります。そしてそれが反って、自分に非常に不利となる事を知りません。それよりも一度信用して自分の身体を委せたならば些細の事は開かぬ。病名だってどうでもよい。「どうかお願い致します。」の一声だけで、後は医師の命を守り、悠々と寝て居ればよいのです。そうされると医師も愉快ですし、章任を感じ、どうしても直して上げねばならぬと決意して努力するのであります。この意気が患者によく作用しない筈がありません。患者は益々その医師を信用し感謝します。医師も一層馬力を掛ける。こうなるとどんな病気だって直らずにいないのであります。委せ切ると言う事が大切であります。自分の身体は自分でどうにもならぬものであります。まして病気はそうであります。医師と自然に委せて、後は時期を待つのが一番よいのです。そうすれば病気に対する不安がなく、病気も案外早く快復するのであります。所がこの頃の一般の人々は、一寸の事でも大騒ぎする。末だ末だ耐えられる所でも、もういけないと悲観する。医師に委せ切る事が出来ないで、何にもならぬ取越苦労で、自分の痛める心を更にいためる。こんな事では直る病気も直らないのであります。

 先きにも申上げました様に真の健康者と言うものは、自分の仕事を充分になし得て、然かもそれに喜びを感ずる事の出来る人と言う事なのでありますから、例令手一本失った、足が一本ないと言う様な不具の人々でも充分に健康者になり得るのであります。要するに健康とか不健康とか言うことは、その人の心掛一つにあるのであります。この意味に於て、心の修養と言うことは、身体の鍛錬にも増して、健康への誠の道であると言う事を忘れてはならないのであります。古から「健全な精神は健全な身体に宿る」と言われて居ります。誠に尤もな事でありますが、又私はこうも言えると思います。「健全な精神は健全な身体を作る。」即ち私は身体よりも、精神を重く見たいのであります。要するに人間と言うものは、身体だけのものでもなく、精神だけのものでもありません。精神と身体との二つに依って成っ立って居るものであります。身体が精神にある影響を与える事も実際でありますが、又精神も大きな影響を身体に与えるのであります。怒る時には怒髪天を衝き、恥しい時には赤面して冷汗が流れ、心配な時は顔色も蒼く、驚けば動悸が早くなるのであります。常に心が平らかで、現在の境遇を最もよく生かし、喜と感謝に生きて行く健康人は、それだけで顔色は円満で慈光をたたえ、食慾は進み、通じもよく、不安がないからよく眠ります。かくして心身共に健康で百年の長寿を全うする事が出来るのであります。これに反して些細な事にくよくよと心配し、何にもならぬ事に心を砕き、あれこれと取越苦労のみし、仕事も出来ず、徒らに他人の迷惑となって居る様な人は、心は常に不平不満に満ちて居るから、顔色もすぐれず、食慾もなく、便秘し、不安の為によく眠れません。かくては短命に終るのは当然の事となるでありましょう。心の安定と言う事は色々な健康法にも増して、健康保持のために大切なものなのであります。

 私共がこの世に人間として生れて来たのは、私共のなすべき仕事天職があるからであります。その天職をしっかりと掴んで、これを実行する事に喜と感謝とを持ち得る人、之が健康者なのであります。何となればこの様な人々は、些細な身体的苦痛を忍んでも、その天職を全うするからであります。私共も以上の様な考えの上に立脚して、日常の生活を律して行かねばなりません。いくら国家が健康の増進を説き、やれ伝染病を撲滅せよ、やれ結核を予防せよ、やれ衛生デーだ、健康週間だとお祭騒ぎで叫んでも、その指導者達の頭に以上の様な、しっかりした根柢を持っていないのであれば、何にもならぬのであります。個人と致しましても、自己の健康保全のためにやれ冷水摩擦だ、ラジオ体操だ、肝油がよい、カルシュームがよい、やれ何々健康器だ、やれ何々健康枕だ、と躍起になって実行しても、以上の様な考えがしっかりと腹に座っていなければ、徒に去就に迷い、神経質となり、根なし草の様に直ぐに方針が変り、反って身体を弱くして行く結果となるのであります。或は些細な事に不平不満が爆発し、自暴自棄となり、暴飲暴食をやらかす。遅寝遅起き、怠惰は直ぐにこれに続いて起って参ります。こうして健康は害われ、病気の原因を作る事となるのであります。然し上述の様な考えをしっかりと腹に収めた人々は決してそんな事はありません。自己に与えられた天職を完全に遂行せんとすれば、どうしても自己の身体に注意せざるを得ないのであります。早寝早起きは勿論、平生の衛生にも気を付け、食物はよく噛み暴飲暴食に亘る事なく、日光に当り、よき空気を吸い、清潔な住居や衣服の中に生活します。そして決して之を乱す事がありません。外から之を乱す様な事が起ってもよく之に耐えます。斯くて自己の健康は保持せられ、自己の天職が完全に遂行出来るのであります。

 何時如何なる所にも喜と感謝とがある筈であります。それを常に発見し得る能力を有し、それに喜と感謝とを持ち得る状態なのであります。この心掛けに向かって修養する事が、身体の鍛錬と同じ様に健康保持の大切な条件であると私は固く信じて居るのであります。





ささやかな土にはあれど新しく吾が得しものと手に採りてみる 太田清之
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随筆:狂人と常人
発行:昭和23年1月20日


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