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当時の論文・コラム:「精神科をめぐりて」より

昭和33年8月25日 於札幌医大円山分院
 精神療法について
 

(一)はじめの言葉
 今日は精神療法について、三時間の間お話を申し上げることになりました。精神療法に関しては、既に十分な経験者である皆様には十分なる知識をお持ちのことと思いますし、又沢山の参考書も出版されていますので、今更私の申し述べる所もないのでありますが、この機にその大略を申し上げ、何かのお役に立ちたいと念願して居ります。
参考書と致しましては
 ギー・パルマード氏(三浦岱学氏訳)の精神療法=白水社
 カー・ロージアス氏(友田不二男氏訳)の精神療法=岩崎書店
 佐治守夫氏(異常心理学講座)の心理療法=みすず書房
などがあり、更にノイローゼに関しては、多数の成書が出て居ります。

 さてそれでは精神療法は何かと言うことになりますと、仲々むづかしい。端的に言えば、一種の教育治療であり、生活指導であり、又助言による治療であります。佐治氏によると
 精神療法とは情緒的な問題をもつ人々をとりあつかう治療の一形式であって、その際訓練をうけた専門家が、患者との間に一定の特殊な関係を慎重に確立することによって、現存する症状や行動的な障碍を除去し、変容し、あるいはその発展を阻止するのみならず、更に積極的に、人格の発展や成長を促進することを目的とする。
と言って居ります。ここで情緒的な問題をもつ人々とは謂所ノイローゼとか神経質とか言う人であって、顔が赤くなるのを恐れて人前に出ることが出来なかったり、(赤面恐怖)いくら手を洗っても、まだ汚れている様な気がしてならなかったり、(清潔恐怖)又は心臓の動悸を恐れて、今にも心臓が止るかの様におびえている人々、(心臓神経症)など感情的なストレスを持つ群を言います。訓練をうけた専門家とは勿論医師ですが、我国ではこの種の専門医制度がまだ確立しておりません。精神科の医局に三月もいて、そして例えば解剖学で学位をとっても、それで精神科を立派に開業できるのです。アメリカでは大学を出て、インターンを終えて、国家試験に合格し、医局に五年いて、初めて精神科の専門医と認められ、精神療法の実施者になるには更に三ヵ年の訓練と習熟とを必要とするのであります。それ故にアメリカの精神分析医は数も少なく、一般世間からの信用も大きいのであります。実際こうした専門家にして、初めて本当の精神療法が実施され得るのであって、私如き生半可な者はとうていその任にないのであります。一定の特殊な関係を慎重に確立しなければ、真の精神療法は不可能であります。この関係は、修道僧と信者、教師と児童との関係に比すべきものであって、患者は絶対の信頼を、医師は限りない愛情を以って、互にかたく結び付くことが必要なのであります。この特殊な関係が確立して初めて、患者はかくすところなく自己の悩みを開陳し、分析的に言えば、その症状のよってきたる幼時の体験や、コンプレックスを意識の上に再現し、これによって現存する色々な症状を除去したり、変容させたり、又はこれ以上悪化せしめ得ない様にする事が出来るのであります。

 更に積極的に患者は自己の心の弱さを発見することによって、これを強化し、人格の発展を期待し得る素地を作ります。

 話が少し面倒になりましたが、こうしたものが、精神療法なのであります。しからば精神療法は何時頃から始まったのでしょう。又その歴史的な経過は如何に伝えられてきたものでしょう。太古に於いては、人類のすべての病気の治療は精神療法であったとも言えるでしょう。大昔の人々は病気は天の刑罰であり、悪魔の呪であると信じました。それ故にその治療法も専ら加持、祈祷、禁厩などにたよったのです。キリストの奇蹟のうちにも、こんな例があります。幾年もの間足が全く立たなかった患者が、キリストにすがった時、キリストは「お前の罪は許された。サア立って歩るいてみよ。」と言って、これを治したのであります。ある意味ではキリストは神経症者のよき診断者であり、又その治療者であったと言えましょう。私も医局時代ヒステリー性の歩行不能者で約二十年もベットに釘づけになっていた患者を僅か数時間で完全に治癒せしめた経験を持って居ります。勿論この様な患者が器質的な病因を持ち、脳髄に病変があったり、脊髄に病気があって起ったものとすれば、いくらキリストでも直すことは出来なかったでしょう。この病気は心因性のものであると診断した時、彼は悠然と病者を治癒せしめたのであります。この様な加持祈?は現在なお人間の間に残っています。医者から医者へとさ迷い歩く妄者達。そしてそれを喰物にして薬をもり、注射して益々病気を悪化せしめる医師たち。この様な妄者が一旦心を決して、何かの宗教的治療に走る時、彼らの心因性の病気はたちまち全治するのであります。悲しいことですが、これはやはり現行の医師の制度にも、患者達にも又宗教的治療師にも非難さるべきものを内蔵しているからなのであります。正しい精神療法が正しい方法に於いて、現代の社会に立派に通用し、かかる危険な療法の一日も早くなくなることを希望せずには居られないのであります。


(二)精神療法の適応症
 精神療法は御承知の様に、どんな病気にも利くものでは決してありません。自分の異常に悩みぬいた人に利くのであって、自分の病気に対して自覚のない精神病者には利く筈もないのであります。精神療法はうける側で、その理解をし得るだけの精神能力がなければなりません。生来性の白痴で、この能力のない人々は神経症に罹ることも少なく、又本療法の適用外と言えましょう。進行麻痺、躁うつ病、精神分裂病、中毒性精神病、てんかん、脳動脈硬化性の精神病と言った器質的の精神病では本療法は利きません。しかし欧米でも一派の人々は精神分裂病が精神分析によって治ると信じています。私共は本病は精神療法だけでは治らないと思います。やっぱりインシュリン、電気などによるショック療法、クロルプロマジンやセルパシルによる冬眠療法あるいはロボトミーの如き外科療法が必要であります。そしてその後意志の交換が出来る様になった時に、精神療法的手技が非常な効果をもたらすと考えます。現在の我国では電気はかけっぱなし、ロボトミーは切りすてごめん、といった形で、後療法としての精神療法が忘れられているのは残念に思います。この事は躁やうつの場合にも又はてんかんの精神発作の際にも用いられるかも知れません。躁のはげしい亢奮状態は如何なる助言も無効であり、うつの沈みきった悲しみは如何なる慰めの言葉も無効であります。しかし助言や慰めは、ないよりはあった方がずっとよいのだ、と言うことを私共は忘れてはなりません。てんかんの精神発作は恐るべきものでありますが適当な薬剤的治療がなされて、落付いてきた時に、適切な言葉と親切な助言とは、どれ程患者を勇気づけるか判らないのであります。その他進行麻痺にしても、脳動脈硬化にしても初老期の精神病にしても、その患者達と出来るだけ多くの接触を保ち、心の悩み、不安、苦しみを聞いてやる機会を与えることは絶対に必要であります。これらの人々は、これらの心の悩みを打ちあけ、十分に聞いて貰っただけで、一応は心の落付を覚えるのであります。器質的精神病にも精神療法は広い意味で絶対に必要であり、これを実施するのは、看護者たる皆様がたであることを忘れてはなりません。

 精神療法が本格的に利くのは勿論、精神的原因にもとづくものであって、心因性反応、ヒステリー、神経症、神経衰弱と言われる一群の疾患であります。そしてこれらの治療は主として医師によって行われるのですが、看護する人々も一応は本療法の本質を理解して医師のよき助手となり、決して邪魔しない様に心掛けねばなりません。そして病室に於いても、患者のよき相談相手となり、その秘めた悩みを安心してうちあけて貰える、よき精神療法者となられる様心からお願い申し上げる次第です。


(三)精神療法の理論
 人の心と言うものは誠に奇妙なものであります。人の心の不思議さは古くから歌によまれ、小説に画き出されました。そして人類は心の悩みを癒す方法として何らかの形の宗教を生み出していました。実際宗教は言葉をかりて言えば一つの立派な精神療法なのです。しかし宗教はあく迄も宗教であって、そこには信仰と言う心の変化が治療効果を現わすためには必要でした。文化が発達し奇蹟を信じ得ぬ科学者の心は如何に慰められるべきでしょうか。ここに必然的に宗教より科学的な精神療法の出現を見るに至りました。フロイトの精神分析療法と森田の絶対臥褥法とがそれぞれの民族的背景を土台として、こうして生れてきたのです。更にパブロフは条件反射の説をたてて、身体と精神との関係を解明し、最近セリエはストレス学説を主張して精神身体医学をたてました。セリエの説は身体に及ぼす精神作用が如何に大きいかを示すものであります。例えば胃潰瘍、喘息、蕁麻疹、高血圧の様な病気は今迄身体的疾患とされていましたが、これらの患者の既往歴を詳細に調査すると、久しい間の精神的な悩みが持続して、潜在することが知られ、これらの悩みを解決することによって、これらの身体的疾患は快方に向う事実が明かにされました。この様な事実は、一般医学にとっても、精神療法の重大さを示すものであって、言葉を代えますと、精神療法は更にヒステリーやノイローゼのみを対象とせず、更にこの様な身体疾患にさえ、応用し得ることとなったのであります。この意味で精神療法の現代の医学に於ける地位に重要なものとなってきました。

 現代はノイローゼ時代と言われます。特に我国に於いては、土地は狭く、人口が多く、しかも貧乏で、将来に希望をもてません。こんな状態に於いて若者達はたやすくノイローゼに罹るのであります。森田氏によれば、何かの機会に心臓の動悸を気にし出すと、それに捕われて、今にも再び動悸が起るのではないか、心臓がとまるのではないかと予期恐怖が始まるのです。フロイトによれば幼時の体験が意識下の意識となって不知不識の間にコンプレックスを作り、これが色々な症状となって現われてくるのであります。そしてこれらの神経症状は、森田式によれば、絶対臥褥の下に心臓の動悸をそのまま病的と看做さないで認容することによって救われ、フロイトによれば、幼時の体験を意識の下にもちきたすことによって、何時の間にか治ってくるというのであります。勿論この二人の説もこんなに簡単なものではありません。誠に巧みに作られた精神療法なのであります。


(四)精神療法の種類
 今日一般に認められている精神療法は色々あるけれども、そのうち重要なもののみについて申し上げます。

 イ 暗示療法。これは覚醒催眠術とも言われるもので、催眠状態に導くことなく、患者の被影響性を利用して、色々な障碍を除くものであります。この際、患者は術者を十分に信頼していること、術者は権威をもって患者に接し、真面目に治療の目的を果たすことに努力することなどが必要とされています。診察時の普通に近い会話のうちに、よき医師はこの方法によって、患者を治し得ることさえあります。この事は入院又は外来の患者さんに接する看護婦にとっても又可能であると言えるのであります。

 ロ 催眠療法。催眠を応用し得る患者には自ら限度があります。どうしても催眠しない人々のあることは勿論ですが、又簡単に催眠に入る人もあります。一般に婦人や子供は感情的であり、術者の与える刺激のみに注意を集中させ、意識活動がそれのみに狭小してきます。この状態が所謂催眠状態で、この間に術者は患者に、そのもつ色々な障碍がすでに治ったと強く言いふくめ、それによって普通の状態になっても本病の全治がおこるのであります。熱心な読経、御詠歌の合唱太鼓たたきなどによって、自己催眠に陥り、神経症が全治することもあります。催眠術療法は人にもよりますが、大体一週間に二回、一回一時間と看做すべきでしょう。本療法は可成有力なもので、色々な神経症、ノイローゼの外に慢性薬物中毒や嗜癖、夜尿症、チックなどの機能的神経症に利くことがあります。

 ハ 遊戯療法、作業療法。皆様の様に御経験の深い方々は、もう既に御承知とは存じますが、どこの精神療法でも、遊戯や作業を実施して、旧い患者の精神荒廃を防ぎ、又日常生活の単調を破ることによって、よい効果をあげています。この遊戯や作業も又積極的な精神療法の一つに数えられます。戸外に出て農耕をする。散歩する。或いは野球、テニス、或いはバレーボールなど。室内ではピンポン、麻雀、碁、将棋、かるた、花札、など。この間に患者さんはしばし心のうさを忘れて勝負の世界に這入ることが出来ます。外来の患者さんでも、適当にこれらの遊戯や作業を処方することによって、新しい軽いノイローゼなどを治癒せしめ得ることがあります。

 ニ 説得療法。これは只医師が患者さんのもつ症状の原因を説明して、これに立ち向かわせる様に説明するだけで治癒せしめ得る場合であり、前述の遊戯や作業と共に新しい比較的軽い神経症に有効であります。例えば赤面恐怖に悩む人々に、赤面することを恐れて、人に面会することを避けていれば、益々病気が重くなること、誰でもが赤面恐怖の傾向があって、それ自身は決して病的なものでないこと、只これに伴う予期恐怖がいけないのだと言うことなどをよく説明し積極的に人に会って、顔を赤くしてごらんなさい。とすすめてみます。理解力のよい患者さんなら、それだけで、目が醒めた様に覚って、赤面恐怖から完全に救われるのであります。

 ここで一言申し添えたいことは、この説得法にしても、又前述の遊戯、作業療法にしても、厚生省の「精神病治療指針」にはちゃんと登載して置きながら、これに要する費用は、入院料に含まれると称して、一文も許可してないことであります。御承知の様に麻雀や碁、将棋、あるいは野球道具などが医療品として認めることは色々困難はあるでしょう。しかし精神病院では、これらのものは精神療法の方法として、絶対的に必要なものなのです。音楽にしても、ラジオ、テレビにしても今やこれらを設備しない精神病院はありません。しかもその費用はしばしば院長のポケット・マネーから出たり、看護婦さんの僅かな寄附によって賄われているのが実状です。私はここで、完全看護、完全給食の如く、完全施設の項目を作り、これに例え一点でも厚生省が認めてくれることを切望しているものであります。

 ホ 体験療法。これは指示又は説得による精神療法と異り、自らの体験によって、自らの苦悩を征服するものであって、森田式絶対臥褥療法がその主なるものであります。森田氏法は慈恵医大教授森田正馬氏が自らの体験に基いて創始しました。以来三十有幾年我国には一般に広く普及し、最近になっては中国でも注目されるようになりました。しかし独乙を初め欧米には仲々理解されず、森田氏も生前、氏の論文を欧文に訳して出版されましたが、西洋人には理解が極めて困難であった由です。これは森田氏法が本質的に仏教の禅と相通ずるものがあり、久しく仏教的教養を身につけた東洋人には、比較的よく理解される様に思われます。森田氏法の根本方針は神経質者の苦悶、不安、取越苦労などの主訴が、先ず内向的神経質な性格によって発生する。次に何らかの発病動機を機会として、心気的傾向を加わえ、不安感情や感覚的苦痛が心に固着する。次いで患者自身がこの苦悩から逃れんとすればする程、反対に苦悩が益々固着して、立派な神経質やノイローゼが成立する、と説明します。それ故にこの治療法も、患者のもつ苦悩が神経質の素地に基くものであることを認識させ、不安を不安として甘受しながら、本来の面目である現実的な生活から逃避したり、脱落しない様に指導して行きます。神経質の人々は、自己の病気が重大なもの、他の人にはない特別なものと過大に評価し、取越苦労、焦燥感のために医師から医師とさ迷い歩いたり、迷信に飛びこんだり、益々症状を悪化、固定させて行きます。この心的機構を森田氏は精神交互作用と名付けました。この悪循環から抜け出して、生存の適応症を高め、積極的に生活する様に、心構えを正しい方向に指導するものであります。

 この方法として先ず患者を入院せしめ、最初の一週間は、完全に実生活の刺激から隔離し、絶対の臥褥を命じて、堪えがたい心の悩みと退屈を忍受させます。次いで起床を命じ、軽い作業から次第に思い作業更に複雑な作業も課して、社会的刺激にも当たらせ、実生活に於ける臨機応変の妙味をも体得させます。その間毎日詳細な日記を記述させ、これを医師が校閲して、心の動きの経過を知りつつ、心的機能、生活態度を正しく指導し、更に個人的説得をも加えることがあります。かくて治療の終わりには、患者は病感執着と自己中心の殻から抜け出て、全治に至るものであります。尚フロイトの標準式精神分析の外に簡便式やグループ式がある様に、本療法にもグループ式を加味し得るのであって、例えば同じ様な主訴をもつ患者さん同志が互に各自の心境を発表し合い、医師が適当にこれを批判して、指導することもあります。この治療法は患者の全生活を絶えず注目していなければならないので、医師の精神的負担は極めて重く、有能な看護者の理解ある援助を絶対的に必要とします。

 ヘ 精神分析療法。何回も申し上げました様にフロイトの創始にかかわる精神療法の最高を行くものであります。フロイトの発見間もなく我国にも伝わり、多くの同好者が現れましたが、東北大学精神科の丸井教授を除いては、我国精神病学会の認めるところとはなりませんでした。第二次世界大戦が我国の敗戦に終わって、さてアメリカの分化を受け入れてみると、アメリカの精神病学界には、本療法が広く普及されているのに驚き、急に我国でも応用せられるに至ったものであります。

 本療法は指示的療法と非指示的療法の中間を行くものであり、又体験療法と説得療法との中間とも言えるものであります。本療法は主として慢性の神経症に有効ですが、時には数ヶ月から数年を必要とすることがあります。あまり明る過ぎない静かな室で、患者を寝台か長椅子に楽な姿勢で横たわらせ、医師は相手から見えないところでしかも患者の言葉を聞きもらさない所に位置します。そして患者に自由連想法によって、何でも思いつくまま、自然に話しをさせます。その間に抵抗とか転移とか分析法独特な障碍がおこりますが、これを克服して、つづけて行くうちに患者は次第に幼時の体験やリビドの傾向を意識の上に表現し得る様になり、何時か今迄自分を苦しめていた神経症の真の原因を明らかにすると共に、神経症そのものも全治していると言う寸法なのであります。この標準式の精神分析は一週間一回、毎回一時間位を要し、且つアメリカでは非常に高価(一回五ドル二千円位)もかかるので、アメリカでも、神経症の上にこの経済問題が加わって、患者を更に苦しめるという矛盾を生じ、本療法の一つの大きな欠点となっています。この欠点を除き、且つ多数の患者を一時に取扱う利便のために、簡便な精神分析法がアメリカで発明されました。これは所謂グループ療法のひとつであります。標準式が幼児体験を分析し、これを意識の上にもち出してくる事を主眼としています。それと同時にこの簡便法では、実際生活を正しい方向に指導し適応し得る様に、周囲との対人関係を調整することに注意されます。又患者の心が医師に転移し依存度が高まると、面接回数をへらしたり、抵抗が強まって反発する様な場合には、面会日数を増加すると言う様に、伸縮自在に調節する工夫も必要であります。簡便法の面接回数は原則として一週間に三回くらいであります。そして現在はアメリカに於いても我国に於いても精神分析を行う場合には、主としてこの簡便法が利用されています。


(五)現代精神病治療中に於ける精神療法の立場
 さて今迄申し上げました様に、ある種の神経症に対して、精神療法は非常に有効なものであります。しかし純粋にこれのみにたよると言うことは殆んどございません。精神療法が最後の手段であっても、患者をそこ迄もって行くためには、色々な他の器質的な方法や薬剤を用いねばならぬことは多いのであります。例えば心因性のうつ病の場合など、初めて極めて強いうつに捕われて、患者は只管死ぬことばかり考え、一言もしゃべらず、意志の疎通が全く欠除することもあります。そんな時には精神療法の前療法として電気ショックやイソミタールの注射など実施して疎通性をはからねばならぬのは当然です。それ故に精神療法が可能となったら、直ちに電気ショックやイソミタールの注射は中止して、直ちに精神療法に入るべきものです。我国現代の精神病治療はこうした思想が比較的少なく、電気ショックを機械的に十回を一クールと称してかけつづけたり致します。アメリカの多くの府立精神病院に於いては、精神分裂病さえ、精神分析の対象なりとし、熱心にこれを実施して居ります。そしてある程度の効果をあげているとさえ言う人々も居ります。こんな場合には、これらの人々は勿論電気ショックも、インシュリンショックもクロルプマジンも又は時にはロボトミーすらも実施し、さてその後におもむろに精神分析にかかるのであります。私共と致しましては、こんな状態では果して、電気ショックが効いたのか、ロボトミーが効いたのか、又彼らの言う様に精神分析が効果あったか判らないとするのであります。けれどもとにかく私共の様に電気はかけっぱなしロボトミーは切りっぱなしと言うことはなく、その後につづく精神療法を本格的なものとして、極めて慎重に実施している点は誠に学ぶべきであると信ずるものであります。我国に於いて現在第一線の活動をしている精神病医は、極めて少数の人々を除いて、一般に精神療法への経験も知識も浅いことは、これらの人々が医局で精神医学を学んだ当時は、独乙学派の強い影響を受けていた精神医学界の下にあって、誠に止むを得なかったとしても、何とかしてもう本格的な精神療法の経験を学んで貰いたいものと希望しているものであります。そしてこの事は全国精神病院の専門医のみならず、その指導の下に活動される皆様にも言えることでありまして、今日この貧しいお話が少しでも皆様のお役に立てばよいと願っている次第であります。


(六)精神療法の実際と看護者
 精神療法の実施者はあく迄も医師であります。医師が精神療法の患者も選択し、その患者に適応した種類をえらびます。比較的新しい軽い症状の人には、簡単な暗示や催眠で試みる場合もあり、又古い重い例には森田式や精神分析を試みるでしょう。既に森田式法をその著書その他で幾分知っている人々には―――実際こういう神経質者は可成多いものです―――直ちに入院せしめて絶対臥褥を命じても、案外うまく行くこともあります。又高度の知能をもち、欧米的科学を専攻したようなインテリなどには医師は精神分析を選ぶかもしれません。比較的軽度又は中等度の神経症が多数入院中の時はグループ療法が試みられます。

 しからばこの間にあって、看護者はいかにあるべきでしょうか。これは当然のことですが、絶対臥褥の室や分析室の周囲はあく迄も静かでなければなりません。バタバタ音を立てて、走ったり、声高で話したり、あるいは看護者同志で笑いさざめく様な不謹慎はおごそかにつつしまねばなりません。そこには誠に憐むべき患者が赤裸々になって、自らの苦悩と戦っている戦場であることを銘記すべきであります。患者は何れもデリケートな神経の持ち主で、さ細な現象を過大に感じとります。少しの親切も彼らは決して忘れないと同時に、又少しの不親切も彼らを大きく傷つけます。然し絶対臥褥の時には不必要な会話は絶対に禁物です。看護者は極めて親切であると同時に、極めて冷静であることが要求されます。臥褥の五日目位は苦悩の頂点であります。もがき苦しみ、救を求め、何か外からのものにすがろうとします。この時こそ看護者はあく迄も冷静を装わねばなりません。精神分析の初めの時、帰ろうとする患者のなかにはよき機嫌の人もありますが多くは苦悩にゆがみ、自信を失い、悲と自己厭悪と失望とに打ちしがれるものであります。こういう時には静かに一言二言、なぐさめとはげましの言葉が若し与えられるならば、患者は勇気を出して、次の分析の機会を逃さないでしょう。

 尚実施中の精神療法に於いて、看護者として大切なことは、医師への信頼をさまたげる様な言動は一切禁物と言うことであります。最初に申し上げました様に、精神療法に於いては一定の特殊な関係を慎重に確立せねばならないのであります。精神療法が成功するためには、この事は絶対に必要なのであって、若し患者の医師に対する信頼感が喪失したとすれば、精神寮法はおしまいであります。それ故にその医師が例え私の如く短気でわからず屋で我がままで誠に困った奴だ、と皆様がお考えになっていたとしても、少くとも精神療法実施中の患者には、そぶりにもそんな様子を示してはなりません。皆様方の医師は何れも人格が立派で、多くの精神療法に経験をもち、既に多数の人々を治癒せしめている、と多少のうそが混っても、誇張でなく、極めて自然に患者に納得せしめ得たならば、それは精神療法実施医の最もよき助手でありましょう。これは誠に不尊な言葉で、申し訳ないのでありますが、患者のためにがまんしていただきたいのであります。これに反して、看護者の僅かな医師への不信の言も、神経質者には、非常に強くひびきます。そして治療がおくれたり又は失敗にも終わることさえあるのであります。患者から、その貴重な体験を書いた日記を受けとって医師に渡す簡単なしぐさの間にも、又作業をして汗をながしている患者から何か要求のあった様な場合にも、看護者は決して、彼らの心を傷つける様な言動をしてはいけません。グループ療法の際には、全部の患者が比較的平等に発言させる様に注意し、終始公平無私でなければなりません。言いかえますと、皆様の日常の勤務がそのまま精神療法の助手であるべく、更にその上の御注意を願いたいのであります。

 尚精神療法実施中の患者の看護日誌の記載は特に注意を要します。少しの異常ももれなく記入されねばなりませんし、出来れば患者の言葉そのままを記入された方が医師の参考になりましょう。

(七)おわりの言葉
 本日は長時間にわたり、つたない私の話をお聞きいただきまして、厚く御礼申し上げます。住み難い我国では近時益々神経質やノイローゼが増加して参りました。そして私共の専門病院で、精神療法が実施されることも次第に多くなりつつあります。この様な時に精神療法の本質的な部分のみ、あらまし申し上げましたが何かの御参考になれば幸甚と存じます。





ささやかな土にはあれど新しく吾が得しものと手に採りてみる 太田清之
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精神科をめぐりて
発行:昭和35年3月11日


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